くさやの味わいを出会いは毎日の生活に。

世の中には、考えるより先に動く人と、動かずにアタマの中で物事をグルグル考える人の二種類しかいないのだろうか。

 

そうなら、私は、間違いなく、後者だ。

 

考えて、考えて、考えて…

 

そして、こうなったらどうするか、ああなったらどうするか、考えて、

 

さらに、どうせこうなるに決まってる、そうなったら恥ずかしい、と、また考えて、

 

結局、動かない。

特に、自信のないことには、いや、正確には、慣れていないことには、ということだろう。

 

私は、そんな私がイヤなので、すぐ動く、フットワークの軽い人を演じている。仕事で、何かあれば、まず行ったり、手間をおしまず何かをしたりできる。

 

が、これは、できない自分を隠すためのヨロイだ。

 

だから、

・できないことはできない!

・イヤなことはしない!

と、できない自分をあからさまに出している人と接すると、何とも言えない気持ちが心の中に湧き上がる。

 

「まったく!仕事なんだから、やれよ!」

 

と、言いつつ、ホンネは、

 

「いいなぁ〜オレもそう言いたいなぁ…」

であり、

「アイツは、あれで通るけど、オレはムリだ。使えないヤツだと思われてしまう」

なのだ。

 

つまり、僻みと憧れが、アイツへのイライラとして心に湧いているということ。

 

こんな話を知人としていると、それは、幼少期に、母親に対して、感じていた不満やホンネを強く抑圧したからではないか、ということになった。

 

なるほど。

一理ある。

 

OK。

そうだとしよう。

腑に落ちるところもある。

全く意識さえしていなかったが、もしかしたら、幼心に、これは言うまい、出すまい、と何キロもの石を載せて、熟成させてしまったかもしれない。

 

けれど、「今」、熟成が終わり、味わう段になったこの心のエネルギーは、母に責任を求めるものでもない。

 

それは、「私」の問題であり、母には母の「私」の問題があるはずだ。

 

よし、これから私は、もっと正直になってみよう。

正直になって、嫌われてみるか…

怖いけれど…

 

私は、くさやを食べたことがないのだが、食べた人に聞くと、臭いが、とても美味しいのだという。

 

私が漬け込んだ心のエネルギーも、くさやのようや悪臭を漂わせ、誰かの眉をひそめさせているだろう。

 

が、この世のどこかに、一人でも、二人でも、私のくさやを食べたい、美味しいと言ってくれる人がいるのではないか、とも感じる。

 

事実、私は、ネットを見ていて、知りもしない、無名の誰かの文章に共感できたことがある。ネットの場でも、出会いは偶然かつ、必然だ。