本当にしたいことなら、何でもできる。

私は何でもできるし、何でも手に入れられる。

 

本当にしたいことなら、本当に欲しいものなら…

 

 

私は何でもできるし、何でも手に入れられる。

そんなことを言ったら、

 

「そんなわけないでしょ。100メートルを10秒で走れるの?エッフェル塔を買えるの?」

 

などと言われてしまうだろう。

中には、怒る人さえいるかもしれない。

 

確かにそうだ。

私は100メートルを10秒はおろか、15秒だって無理だろう。

そして、エッフェル塔を自分のモノになどできるわけがない。

 

だが、実のところ、100メートルを10秒で走りたいのか?エッフェル塔を自分のモノにしたいのか?

全くしたいとは思わない。今、この文を書くために、できない例として考えただけで、日頃から、そんなことを意識してもいなかった。できるわけがない。

 

なるほど、意識…

 

これは重要だ。

意識しているということは、可能性があるということではないか?

 

私は、ありふれた日常から感じたことを書いて、読んだ人の毎日がちょっと楽しいものにしたり、こんな自分でもいいんだ、と自分にホッとできたりするようなことがしたい。

 

すでに先行者は相当にいる世界ではあるけれど、私のエッセイ集が出版され、数十万、数百万の人の手に渡ることだって、きっとある。

 

私は、実は、いわゆるビジネス書を出版した経験がある。まぁ、大して売れなかったけれど、そういう結果もさながら、何となく、ノドに小骨が刺さっている感じがあった。

 

私は、以前でいう、ハウツー本が嫌だという訳でない。すぐに使えて、すぐに気持ちを明るくできる、「清涼飲料本」も必要だ。

 

私は、

 

文を書くことは好き。

誰かに役立つ情報を集めたり、発信したりするのも好き。

けっこうな目立ちたがり屋。

 

だとすると、ビジネス書の世界は、私にとって、素晴らしい世界なはずだ。

 

だが、私にとって、少なくとも前著は、何か自分を掘りきれなかったような心残り、やり残し感がある。

 

出版が決まってからも、書いている時も、書店に平積みされているのを目にしてからも、私は、

 

「どうせ私には、できる訳がない。ヘンな夢を見て、傷つくぐらいなら、うまくいかないと決めた方がいい」

 

と、心の逃げ道を用意していた。

そりゃ、売れる訳がない。

 

私には、サラリーマンとしての、社会的には「本業」がある。

 

そちらで問題を起こしたくないというのは、よくある話だが、これも自分の気持ちに蓋をする言い訳だ。少なくとも私の場合は。

 

会社に迷惑かけられないから、家族もいるから、などと、やらない言い訳をしていたと思う。

 

どんな本が売れるのか、私にはわからないが、少なくとも、私は、私の心の奥底にあるものを絞り出すから、誰かの心に響くのではないかと思っている。

 

しかし、「心の露出狂」ではいけない。それは迷惑だ。

 

日常の出来事の中に、私の心の奥底が投影された心の模様を見つけ、自分自身の凝り固まった毎日の生活や考え方をちょっと揺さぶりたい。

 

すると、そのことは、きっと誰かの心も、ちょっと揺さぶることになる。変わらないと思っていたことが変わる。視点が変わる。増える。

 

私は何でもできるし、何でも手に入れられる。

 

さぁ、そう言ったからには、私が率先して、本当にやりたいこと、欲しいものに貪欲でなければならない。

 

それとも、今、流行りの引き寄せの法則的には、やりたいことが、もうできている私、欲しいものが、もう手に入っている私に気づきなさい、ということなのだろうか。

 

まぁ、よくわからないけれど、私が毎日の中で、見たもの、感じたことを書き続けて行こうとは思う

欲しいものを手に入れる3つの秘訣 例えばポルシェ〜

欲しい、欲しいと思うから、手に入らない。

好きだ、好きだと思うから、わかってもらえない。

 

とことんまで欲しがり、とことんまで好きになって、

 

「もう、いいや」

 

と、肩の力が抜けた時、手に入る、わかってもらえる、という。

 

まぁ、そうだよね、と思う。

けど、なかなか、できない。

 

まず、そこまで欲しがれるか。好きになれるか。

欲しい、欲しいと言いつつも、好きだ、好きだと言いつつも、そのうち忘れてしまったり、他に目が移ることも多い。

 

ということは、もう、アタマがおかしくなると言えるほど、欲しくなったり、好きで、「いつづけられる」かどうかが、関門だということ。

 

いや、本当に欲しいなら、好きなら、何も言われなくても、意識なく、自然と続いているはず。

 

だから、無意識に、無自覚に続いているコト、モノ、ヒトには、大きなヒントが眠っている。

 

ところが、表面上の意識は、あれが欲しい、あの人が好きだ、と思ってしまう。ということは、そのコト、モノ、ヒトの奥に、本当に欲しいものがあるのだ。

 

では、私は何が欲しいんだろう…

 

そうそう。

私は、今、ポルシェを欲しいと思っている。

 

ポルシェ…

理屈では、いろいろ言える。

 

職場の同僚に、なんと言うか。

ご近所さんに、どう説明するか。

そもそも、家族に、どう認めてもらうか。

 

他人には、ごもっともなことを言って終わらせていいけれど、自分だけは、自分のホンネに正直でありたい。

 

結論から言えば、私はポルシェというカタチに、

 

「スゴい自分」

 

を見出したいのだ。

 

どうポルシェのモノとしての良さや魅力を語ろうと、ホンネはそこにある。私はそれをハッキリと認めて、できるなら、そんな自分を褒めたいと思う。

 

〜ポルシェというわかりやすいカタチに、スゴい自分を見出そうとしている〜

 

他人は、そんな私のホンネを見透かして、陰口を叩くかもしれない。

 

だが、誰が私を笑えるのだろう。

 

名門校というネームに、スゴさを見出していないか。

有名企業というネームに、スゴさを見出していないか。

我が子を有名私立に入れたということに、自分のスゴさを見出していないか。

 

私は、そういうことに、自覚的であることを褒めたいのだ。

 

そして、その上で、ポルシェを買い、有名企業なり、名門校なりのネームを求めたいと思う。そこに本質はない、とわかった上で…

 

私が、心の底から求めているのは、人の少ない、ノンビリしたカフェで、一人、コーヒーの香りを楽しみつつ、ノンビリすることなのだ。

 

そして、自然とお互いに共感してしまう、数少ない人達と、心の通った時間を過ごすことなのだ。

 

ポルシェを買っても、なんとなく満たされず、罪悪感を持ち、

 

ポルシェを買わなくても、なんとなく満たされず、後悔をする。

 

時間の無駄だ。

 

そうか。

欲しいものを手に入れるには、この3つだけを考えればいいんだ。

 

まず、

 

「欲しければ、買えばいい」

 

ただそれだけのこと。

手に入れること、求めることを恥ずかしく思う必要なんてない。

 

次に、

 

「見せかけのくだらないオモチャにお金をたくさん使ったっていい」

 

どんなモノでも、コトでも、ヒトでも、求めることに罪悪感を持つ必要なんてない。

だって、誰かが私のことを好きだと言ってくれたら、単純にうれしいから。

 

そして最終的に、

 

「本当に欲しいものを手に入れてもいい」

 

と、 私が私を認めることなのだ。

私は、ノンビリした一人時間と、共感しあえる人達だけと過ごす時間が欲しいだけだ。

 

なのに、実は、私にはそんなことできない、そんな資格はない、と私が私を許していない。

 

なんだ。別にいいんだ。

 

人生は、私が私を認める旅なのかもしれない。

ちょっと大袈裟かな…

私って、なかなかわかってもらえない…の気持ちをどうすればいいか。

「あ〜この人って、付き合いやすい…」

 

私がそう感じる相手は、実は、あまりいないことに気づき、愕然とした。

 

ということは…

当然、私のことを、そう思ってくれる人も、あまりいない訳で…

 

うーん…

私って、なんて人気がないんだろう…

 

と、しばし、落ちた後、

 

「なんで?」

 

と、考え始めていた私は、実は相当なポジティブタイプだ。

 

さて、考えてみて、気づいたこと、それは、他人への期待が多すぎる?ということだ。

 

私の期待とは違う反応や言葉、対応などが返ってくることが、イヤで、というよりも、不安で、傷つきたくなくて、自分から人を遠ざけているような気がする。

 

実は私は、表面的には社交的で、一人でもパーティに行けるタイプだ。

 

だが、実のところ、フランクに人と付き合うことは、全くできず、鎧を身につけた武者姿で、装った自分が、「私」を演じているというのが実際だ。

 

そんな私が、洋服好きなのは、まったくもって、当然のことで、思わず、笑ってしまった。そして、腑に落ちた。

 

私の全てをわかってほしい。

私の期待通りの反応がほしい。

私の心の平穏を保ってほしい。

 

そんなことを叶えてくれる人が、いるわけがない。

アタマでは、それを理解していて、実際、わかってもらえない、期待外れの反応を受け、心の平穏をかき乱される経験をしてばかりなものだから、自分から人を避けている。

 

そして、私は、さらに一歩、踏み込んでみようと思う。

 

私の全てをわかってくれる人。

私の期待通りの反応だけをしてくれる人。

私の心の平穏を保ってくれる人。

 

きっと、本当は、母にそれを期待していた(いる?)のだろう。

 

ところが生身の人間である母に、そんなことができるわけもなく、わかってもらえないし、期待外れの反応ばかりだし、心の平穏をかき乱してくるのだ。

 

それだって、みんな同じで、私だけ、過酷な親子環境に置かれていた訳ではない。

 

が、私の場合、まず、あまりに小さい時から鎧を身につけるクセをつけ過ぎたところに1つの特徴がありそうだ。

 

私の全てをわかってくれる人を求めるなんて、

私の期待通りの反応をしてくれる人を求めるなんて、

私の心の平穏を保ってくれる人を求めるなんて、

 

「イケナイ」

 

ことだ、と強引に、何トンもある漬物石を置いたこと、何キロもある鎧を身につけるのを当たり前にしてしまったこと…

 

子どもなんて、小学生になったって、欲しいものがあれば、素直に欲しがっていいし、腹が立てばキレていいし、甘えたければベタベタしていいと私は思う。お行儀のよさなんて、親の見栄と言っていい。

 

そう考えると、私は私を褒めてあげたくなってしまった。

 

よく幼児の頃から、何トンもの漬物石を扱ってきたなぁ〜

よくあんな小さな頃から、何キロもの鎧を身につけてきたなぁ〜

よく犯罪も起こさず、とりあえず仕事をできるまでに育ったなぁ〜

 

もちろん、現実的に、私の期待に全て応えてくれる人なんていないけれど、少なくとも、

 

私の全てをわかってもらいたい!と欲張っていいし、

私の期待通りの反応を理不尽に求めていいし、

私の心の平穏を保ってくれることを王様のように要求して、

 

「イイ」

 

んだ!

 

もし、あなたが私にそれを要求しても、私は応えない。

けれど、それを要求することは、心から応援する。

そして、できることは、応える。

 

こういう話を、何となく共有できる人が、「気持ちをわかってくれる人」なんだろうと、私は思う。

おカネは大好きなのに、貯まらない理由がスゴかった。

サイフを空にする勇気

 

カネは天下の回りもの。

本当だろうか?

よし、やってみよう。

 

私は、まず、サイフを持つのをやめた。

手帳型スマホケースにスイカ、クレジットカード、よく使う厳選したポイントカードを入れ、現金もそこにいれるようにした。

 

さらに、現金を持たない勇気を出した。

もちろん、必要になれば、ATMで下ろす。

クレジットカードも使う。

欲しいもの、買わなくてはならないものをガマンする訳ではない。

 

果たして、カネを持たないようにした私に、カネは回ってくるのだろうか。

 

実際、今のところ、回ってきた、とは言えないけれど、

 

「お金を使わなきゃ」

 

という、ありえない感覚が減ったのは間違いない。

 

お金を貯めたい、節約したい、と思っているのに、実のところ、

 

「お金を使わなきゃ」

という意識の方が強かったのだ。

使いたい、というような生易しいものではない。

 

「使わなくてはいけない」

 

まるで、使命感…

こんな使命を帯びて、使ったところで、日銀も、安倍首相も、私を表彰してくれることもない。

 

むしろ、クレジットカード会社から、引き落としができませんでした、とバカに丁寧な連絡が来るだけだ。

 

現金を持たなくしたことの意味は、おカネについて、自分でも想像さえしていなかったホンネ、不安感をあらわにしたことだ。

 

そして、不思議と、おカネに対する不安感が減ったのも、素晴らしい成果だ。

 

爪は切らずに、磨きたい。

能ある鷹は爪を隠すけど、能ある人は爪を切るのかな…

 

できないこと、ないことを恥ずかしがって、隠すならわかりやすい。

 

タチが悪いのは、できること、あることを恥ずかしがって、隠してしまうことも、たくさんあるということだ。

 

私は身長176cm。

まぁ、統計的な平均身長より多少、高いとは思うが、驚くほど高いというわけでもない。

 

小学生の頃の私は、クラスの中で、一番、二番を争う背の高さだった。

 

イヤぁ、それが本当に嫌だった。

 

私の職場の後輩など、それほど小さくもないと思うのだが、自分の小ささを二言目には嘆いている。

 

そういう立場からすると、背が高いのが嫌だったなんて、贅沢にも程がある、ということだ。

 

とはいえ、少なくとも私は、人より抜きん出たいクセに、人と違うこと、目立つことに抵抗感がある。

 

先ほどの私の後輩など、びっくりしてしまうほどの仕事の処理力があるのに、それを活かそうとしないように私には見える。

 

背の低さにこだわるように、いつでもできないこと、ないことを嘆いて、できること、あることをまっすぐ認めないように、あえてしていると、私には見える。

 

能ある鷹は爪を隠すけど、能ある人は爪を切ってしまうようだ。

 

爪は多少、切らないと不潔でもあり、危険もあるが、切り過ぎれば深爪だ。バイキンなんか入ってしまったら大変!何しろ、本人が一番、痛いはずだ。

 

さてさて、私にはどんな爪が生えているのだろう。

ないことを探さず、あるという前提で、探してみよう。

 

そして、切るのではなく、磨いてみようと思う。

何を置いても、自分が自分のホンネを認めていい。

どんなにヨコシマな気持ちでも、人に言えないドロドロの気持ちでも、自分だけは、それを認めることが大切。

 

正しくありたい。

 

何となく、そう思う。

 

けれど…

 

現実的には、そう甘くはない。

 

優先席にどっかり座って寝ている若者を見て、ちょっと立てよ、と思う。

 

なのに、ひどく疲れて帰りの電車に乗った時、思いがけず座れた座席!と思うと、初老の男性が乗ってきた。まぁ、譲られても嫌がるだろう、と決めつけて、すぐに睡眠…

 

ということだって、あるかもしれない。

 

いや、逆の方が多いかもしれない。

 

疲れて、座っていたいのに、あ〜あのおばあちゃん…疲れてそうだなぁ…私が譲らなきゃ誰が譲る!と意気込んで、すっくと立つ。

 

気持ちはいいけれど、モヤモヤ。

 

まったく、目の前に立つんじゃないよ!

 

そんな悪態を堂々と、心の中で叫びたい。

いい人ぶって、あるいは、自分がそういう人でありたくて、譲ってもいい。

けど、あ〜ホントは座ってたかったのによ〜という、人には言いづらいヨコシマな気持ちを大切にしたい。

 

人を羨んだり、妬んだり、そんな人に言えない気持ちも、心の中に湧いてきてしまうのは当然なんだ!

 

人に言えた方が、早くラクにはなると思うけど、言えないからこそ、心の奥にホンネは熟成されていく。

 

くさやになる。

 

まず、自分が一番に、自分のヨコシマで、醜くて、最悪なホンネを認めたいと思う。

 

どうせ、みんな同じなんじゃない?

ホントはね…

くさやの味わいを出会いは毎日の生活に。

世の中には、考えるより先に動く人と、動かずにアタマの中で物事をグルグル考える人の二種類しかいないのだろうか。

 

そうなら、私は、間違いなく、後者だ。

 

考えて、考えて、考えて…

 

そして、こうなったらどうするか、ああなったらどうするか、考えて、

 

さらに、どうせこうなるに決まってる、そうなったら恥ずかしい、と、また考えて、

 

結局、動かない。

特に、自信のないことには、いや、正確には、慣れていないことには、ということだろう。

 

私は、そんな私がイヤなので、すぐ動く、フットワークの軽い人を演じている。仕事で、何かあれば、まず行ったり、手間をおしまず何かをしたりできる。

 

が、これは、できない自分を隠すためのヨロイだ。

 

だから、

・できないことはできない!

・イヤなことはしない!

と、できない自分をあからさまに出している人と接すると、何とも言えない気持ちが心の中に湧き上がる。

 

「まったく!仕事なんだから、やれよ!」

 

と、言いつつ、ホンネは、

 

「いいなぁ〜オレもそう言いたいなぁ…」

であり、

「アイツは、あれで通るけど、オレはムリだ。使えないヤツだと思われてしまう」

なのだ。

 

つまり、僻みと憧れが、アイツへのイライラとして心に湧いているということ。

 

こんな話を知人としていると、それは、幼少期に、母親に対して、感じていた不満やホンネを強く抑圧したからではないか、ということになった。

 

なるほど。

一理ある。

 

OK。

そうだとしよう。

腑に落ちるところもある。

全く意識さえしていなかったが、もしかしたら、幼心に、これは言うまい、出すまい、と何キロもの石を載せて、熟成させてしまったかもしれない。

 

けれど、「今」、熟成が終わり、味わう段になったこの心のエネルギーは、母に責任を求めるものでもない。

 

それは、「私」の問題であり、母には母の「私」の問題があるはずだ。

 

よし、これから私は、もっと正直になってみよう。

正直になって、嫌われてみるか…

怖いけれど…

 

私は、くさやを食べたことがないのだが、食べた人に聞くと、臭いが、とても美味しいのだという。

 

私が漬け込んだ心のエネルギーも、くさやのようや悪臭を漂わせ、誰かの眉をひそめさせているだろう。

 

が、この世のどこかに、一人でも、二人でも、私のくさやを食べたい、美味しいと言ってくれる人がいるのではないか、とも感じる。

 

事実、私は、ネットを見ていて、知りもしない、無名の誰かの文章に共感できたことがある。ネットの場でも、出会いは偶然かつ、必然だ。